(写真:フォトAC)
記事
児童の前で校長怒鳴る 小学校の男性教諭を減給処分
(2025.08.22 日テレNEWS NNN)
小学校に勤務する男性教諭が、児童の前で校長を大声で罵倒したなどとして、減給の懲戒処分となりました。
それは、今年5月のこと。騒ぎを起こしたのは、神奈川県相模原市の小学校で3年生の担任をしていた23歳の男性教師です。
市によると、男性教師はその日の朝、校長と面談を行っていたため、いつもより遅れてクラスの朝の会に出席することに。この遅れたことについての児童への説明や謝罪を校長に要求したといいます。
校長は、クラスに出向いて謝罪。しかし、男性教師は――
男性教師(23)
「はっきり言ってください!自分は児童を守る責任がある!」
大声で校長を怒鳴りつけ、罵倒。あまりの勢いに泣き出す児童もいたといいます。
(以下略)
評
校長が若い教諭を子どもの前で罵倒したパワハラ事案かと思ったら、2年目の新人教諭が児童の前で校長怒鳴りつけたという逆事案で、全国的に大きな話題となった事件である。
私の友人のテレビマンが若い社員を叱咤するときの、
「バッキャロー! ネコがネズミを噛んだってニュースにはならねぇんだ! ネズミがネコに噛みついた話を持ってこい!」
と同じ類の話と言える(友人の話は昭和時代のことで、現在はこんな言い方はできない)。
このニュースに対してSNSは、
「いよいよ教師の質の低下もここまできたか」とか、
「採用試験競争率2倍時代の落とし子だ」とか、
「誰でも教師になれる時代の当然の帰結だ」とか、
様々ににぎわしいが100万人近くもいる幼小中高の教諭の中には変わり者も出てくる。1万人に一人という稀有な存在が100人もいると考えれば腑にも落ちるだろう。
ただし「変わり者」の形は違ってきているだろう。昔は主軸(もしくは本流)から外れた変人、といった奇矯人が多かったが、今は「被害者意識の強い正義感」が増えているのかもしれない。
始業前から校長面談を受けなければならないほど緊急の案件が何だったわからないが、彼は学級の朝の会に間に合わなかったというただ一点を問題とする。そこには、
「教員である以上、子どものことは最優先にすべきだ。日課にきちんと定められた教育活動『朝の会』に間に合わなかったという瑕疵は、校長面談の延長から生じたものであり、その責任は校長であろう十全に取るべきだ」
という正義があり、正義は不可侵だという信念がある。
しかし同時に、そこには「誰のための校長面談だったのか」とか「児童が恐怖のために泣き出しても果たされなくてはならないほどの正義か」とか、あるいは後から出てくるように「(郊外活動の)引率の先生を交代しないと年休をとる」というほど学校の教育活動を軽視する人が「自分は児童を守る責任がある!」と主張する違和感はないのかとかいった問題意識の入り込む余地はない。
彼にとって大切なのは、校長面談その他で自分自身が傷ついているということである。文科省の定義によると、
「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。 なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
*1」となっている。
彼はその定義に守られて子ども時代を過ごし、いま23歳になった。一応おとなの年齢だが、同じ「定義」を援用すると、彼は面談で校長から心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているのであって、つまり明らかにいじめを受けたのである。さらに一般に言われるように、
「いじめは100%いじめる側が悪いのであって、被害者に責任を問うてはならない」
としたら、その怒りが校長の向けられたのはむしろ当然の帰結、権利をきちんと訴えた、勇気をもって正義を執行したと考えれば、むしろ賞賛されてしかるべきではないか?
もちろん私がそんなふうに思っているわけではない。
記事によると23歳の教諭は、
「4月から自分の言動で子供や保護者に迷惑をかけたことを重く受け止めている」
と謝罪したそうだが、心底、反省はしていないだろうという話をしたまでである。
平成の教育はこんな弱者のオバケをつくってしまった。その一部が教員世界にも入り込んでいるという、それだけの話だ。